DK-682 銀鍍金鴻七宝繋文透彫籠子
時代: 唐時代 、サイズ: 高さ 26cm×横幅 19cm×奥行 16cm
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打ち出しと透彫りの技法を併用し、鴻(大型の雁)と鳳凰が飛び交う方紋が連なった「七宝繋ぎ」の文様を表し、蓮葉形4足で支える木爪形の提梁の固形茶葉入れ茶器。
法門寺地宮出土の茶碾子(固形茶を粉末にする「やげん」)に刻銘される「文思院」が底面中央に刻されている。整った装飾は典雅かつ優美である。「文思院」は宮廷の金銀器製作工房であったことが判明しており、いかにも高級品と知れる。

遼代壁画には天井から吊るされた同種籠子から肩車した童子が茶葉を取り出す情景が描かれている。隋唐期になると、その高い文化を慕って周辺から金銀が流れ込んだし、それにもまして唐代金銀の産出が飛躍的に高まった。そして大量に出回ることになる金銀は必然的に金銀器の製作へと向かい、その作品を購入する層を広げた。需要の拡がりはまた中央・民間の製作技術を高め、それらが相乗作用となって青銅器の精緻で高度な金銀文化を結実した。

隋唐では喫茶の習俗に大きな変化が起こった。茶葉を煮出しして渇きをいやす大まかな飲み方から、丁寧に煎じてゆっくりと味わう芸術へと変わった。上は皇帝から、下は仕大夫・文人に至るまで皆がお茶を味わうことを当時の最新の流行だと考えていた。陜西の法門寺からは、咸通15年(874年)に献げた大量の茶器が出土したが、本品の類品も有る。

唐代の金銀器の製造は首都長安を中心として行われ、官営の「金銀作坊院」がそこに設けられ、宮廷用の金銀器を手作りした。唐の宣宗・大中年間(847〜859年)には皇室専用の金銀細工を作る「文思院」が発展した。「金銀作坊院」の製品が皇室のニーズを満たしきれなかったものと思われる。そのほか晩唐の頃、長江下流一帯でも金銀器の製作がかなり高いレベルに達し、都物と妍競うまでになった。

参照 : DK-476
参照本 : 中国茶文化と日本











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