大きな耳が立ち、腹部は垂れて平底となり、三本の足を持つ。腹部上面に6ヶの細長い龍文が左右対称に向かい合う位置で装飾される。西周前期には青銅器はそれまでの豪華で華麗な器形から簡素で実用的なものへと変化し、文様も簡潔となる。酒器が減少して食器が多くなり、列鼎と編鐘の礼器制度が確立した。文様は怪獣の怖さは薄れ、次第に図案化された文様となる。すなわち殷代来の呪術的な宗教性の強かったものから儀礼的な性格へと変わっていった。浮彫り龍文は立体的で力強く・明瞭にあらわされ散在して付着した錆色と白銅質肌色の対比も美しく、銅器鑑賞の魅力を知らしめてくれる。
周は前771年に後継者争いの内乱と北方の異民族である犬戎の侵入によって幽王が殺され一端滅びたが、その子の平王が前770年に洛邑で即位し、周を再建した。前771年までを西周時代、前770から後を東周時代と呼んでいる。周が王朝としての実力を保っていたのは西周時代までであったが、それも西周中期以後は衰えていったことが知られている。周原においては、青銅器を多数埋納した窖蔵(埋納坑)がときおり発見され、これらは西周時代末の動乱の際に埋められたもの。周代の封建制度は社会の秩序を整え、人の心を和らげるものとして礼儀や音楽が重視された。音楽を演奏するためのセットになった鐘がしばしば作られたが、これはこの礼楽に関連するもの。
参照 : DK-214 、 DK-215 |